弥生人は見かけが自分たちとは異なり彫りが深く目や鼻が大きく目鼻立ちの良い縄文人を「野毛者」とか「毛人」とか「エミシ」とか「オニ」と呼び差別した
今から1510年前にオホドという滋賀県の人が九州のワと近畿のヤマトを統一し初代の王様になった。
のちに継体天皇と呼ばれるオホドは、国の名を「ワ・倭」と書いて「ヤマト」と読ませた。
宋や新羅、百済に対して「王朝が変わったわけではないからこれまでと同じように付き合ってね」と主張したかったからだ。
元号もオホドが初めて制定した。
平成まで続く元号の初代が「善記」という元号だった。
日本書紀古事記については、いわゆる「郡評論争」という1960年代の東京大学の論争において「日本書紀古事記の多くの記述は事実でない」と判定された。
海外の記述などによりわかったことは、507年に即位した継体天皇より前の天皇については嘘だったのである。
6世紀というと、ヤマトという現在の日本の前身と思われている国が奈良にできたいわゆる古墳時代だ。
日本書紀古事記ではイワレビコという人が紀元前7世紀だから今から2700年前に宮崎県を出て奈良県を侵略したのをもって日本のあけぼのだと記載されている。
そしてこのイワレビコが天皇の起源だと説明している。
日本書紀古事記の多くが捏造された物語だということが判明したため、海外の記述や遺物もない、イワレビコから武烈までは奈良時代の藤原の捏造であろう。
では6世紀以前の日本列島に国がなかったのか?
各地に伝わる伝承を総合すると、5世紀ごろの日本列島は一つの国ではなく、複数の国があった。
九州には、宮崎を都とする弥生人の国「ワ」があった。
近畿には奈良を都とする弥生人の国「ヤマト」があった。
九州と近畿は常に戦争をし、その時期に強い方が中国、四国をも支配した。
フォッサマグナの西端である日本アルプスの東に位置する関東、東北には縄文人の国「ヒノモト」があった。
6世紀、継体天皇によって九州の「ワ」が侵略され滅ぼされた。
弥生人は徐々に東にも侵略したが岐阜と長野の界の日本アルプスによってその行く手を阻まれた。
縄文人は、弥生人との国の境をあらわすために、いくつもの大きな柱を日本アルプスの東に建立した。
諏訪大社の御柱である。
弥生人がこれ以上侵入してきたら戦うぞという意思表示だった。
7世紀になり、ヤマトタケル、桃太郎(キビツヒコ)、一寸法師らによって、関東が侵略された。
弥生人は、見かけが自分たちとは異なり、彫りが深く目や鼻が大きく目鼻立ちの良い縄文人を「野毛者」とか「毛人」とか「エミシ」とか「オニ」と呼び差別した。
キリスト教徒がアメリカ原住民にしたように人とは見なさず虐殺し金品や耕作地を奪った。
初代征夷大将軍の坂上田村麻呂、そして江戸時代の徳川に至るまでその虐殺は続いた。
19世紀、明治維新が起き、薩摩、長州という縄文人が弥生人の徳川を滅ぼした。
和(ヤマト)によって奪われた「ヒノモト」という国の名を奪い返したのである。
「大化の改新」というテロによって、弥生人の藤原が縄文人の蘇我からその政権を奪ってから実に1200年後のことであった。