善人と悪人とは自分の人生を自分で決めようとするかどうかの違いである
以前の同僚にこんな人がいた。
俺は、選挙に行ったことがない。
だから、決まったことには従う。戦争に行けと言われれば黙って従うよ。と。
こういう、「お任せ」する感覚というのは、私にはさっぱり理解ができないのだ。
浄土真宗のように、阿弥陀さまに全てをお任せしてしまうという決断である。
仏教では、自分で人生を決断することを放棄した人を「悪人」という。
決して悪い意味ではなく、自力で生きていく人を「善人」というが、その反対に他力で全てを偉い人にお任せしてしまう人を悪人と定義しているだけのことである。
私は、幼い頃から、自分の人生というのは、自分で設計し、決断し、選択して形成するものだと考えていた。
今になって、その頃のことを思い出すと、決断に迷ってばかりいて、迷った挙句、間違った決断や決断できずに立ち止まっていたように思う。
今の私は、なるべく我を抑えて「成り行きに任せる」ことを心がけるようになった。
それは、決して「悪人」になったわけではなく、自分の本心に従って生きていくことである。
先日も、クライアントから、あるウェブサービスからデータを大量に取得し、自社クラウドにキャッシュし、自社サービスに活用することが提案された。
私は、考えるまでもなく、不正行為であると感じ、嫌悪感とも正義感ともつかない嫌な感じを抱いた。
その嫌な感じに正直になって、クライアントに「それは著作権違反に当たること。利用規約でもキャッシュが禁じられていること。」を丁寧に説明し思いとどまってもらった。
クライアントからアプリ作成という仕事を請け負っている立場では、顧客との関係が壊れかねない行動だとは理解しているものの、勝手に手が動いて、上掲のテキストメッセージを送っていた。
きっと、「自分の人生を自分で決めよう」と考えていたら、自分の本心に従わず、あるいはそれを抑えて、頭で自己都合を考え、コンプライアンス違反の行為に目をつぶって、ビジネスの成功を目指していたかもしれない。
私は、短期的な結果として、不利な結果になったとしても、私の決断は正しかったと言える。
一つの犯罪を食い止めたのだから。
故意や無知でコンプライアンス違反した企業はこの社会から追放される。その文脈では、私は一つの企業を救ったのである。
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・クラウド・データ(データベース)は著作物である。
著作物は、著作権法で大切に保護されている。
他人の権利を侵害すれば刑事罰が課せられる。
・TPP11発行と同時に、著作権違反事件は親告罪ではなくなったので、コンテンツホルダー以外であっても告発できる。
善人と悪人とは、自分の人生を「自分」で決めようとするかどうかの違いである。
ただし、ここでいう自分とは、「自分の本心」なのか「自分の頭」なのかが大きな問題である。
私は、自分の本心に従う。
自分の本心を「阿弥陀仏(神)」と呼ぶのなら、私は、親鸞(浄土真宗)と同じ考え方であり、私は悪人である。